『大阪叢書 第四輯 堂島・曾根崎界隈』所収 大阪趣味研究会 1929
| （二六）北の大火の思ひ出 |
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北の大火は明治四十二年七月三十一日で、午前四時北区空心町七 ・・・・・・・ 〇番地の莫大小商玉田庄太郎方で、洋燈を覆へした（其当時は未だ ・ ランプが使はれてゐた）のが因で、火は忽ち松枝小学校を甜め、折 ・・・・ ﾈの烈風に煽られて焔え広がり、遂に五十一町、一万一千三百六十 ・・・・・・ 五戸、二十一橋を焼いて、西野田の畠まで行きつき、もう焼くもの ・・・・・・・・・・・・・ がないから已を得ず鎮火した。 筆者は此の当時、南堀江に住んでゐて、呑気にも其の火事を知ら ずに 丁度夏休みで遊びに来てゐた甥を朝から奈良見物に連れて行 ・・・・・・・・・ つたものだ。そして半日遊んで帰り路、汽車の窓から覗くと（其当 時大軌電車などは未だ無かつたから、奈良へ行くには、湊町駅から 関西線に乗るのであつた）大阪方面の空が真黒ではないか！聞いて あつけ 見ると大阪が大火だと言ふので呆気に取られた。湊町駅へ着くと成 や じうま 程何となく騒がしい。急いで家へ帰り、それから、野次馬の一人に しゞみばし なつて、堀江から歩いて曾根崎へ行き、丁度蜆橋の南詰に突立つて ・・ 見物してゐた。 じょうきぽん 其当時、大阪の消防は自動車も馬車も持つてゐなかつた。蒸気喞 ぷ 筒は、先に長い綱をつけて、消防夫と野次馬が協力して、ヱツサヱ ツサと引張つたものだ。 しかし、もう其時は消防夫も巡査も疲れ切つて、充分働らけなか たヽ つぶ つたやうだ。そして工兵隊が出動して、風下の家を叩き潰してゐた。 蜆川には、家財道具を満載した小舟が、ぎつしり詰まつてしまつて も 動けないでゐた。その上に火の粉が飛び、やがて焔へ出し、それが 対岸へ移るのであつた。をして我々野次馬は軍隊の手で追つ払はれ てしまつた。 ち わ この一日で、曾根崎新地は失なはれた。幾多の情話、痴話、夢、 くわいじん そして詩にうたはれたこの町も全く灰燼に帰した。また暫くして、 じようしゅ や たゞ それらのなまめかしい情趣を、焼け爛れた瓦や、毀れた煉瓦壁と一 しっかい 緒に悉皆、蜆川へ投げ込んで、新らしい曾根崎、新らしい堂島が芽 を吹いた。堂島ビル、大江ビル、曾根崎ビル、大毎ビル、太平ビル、 ま はくあ 梅ケ枝ビル、等等と天を摩する、白堊の洋館も、すべて焼け土の上 に新らしく建てられたものである。そして、営々として、新らしき 時代の、新らしき情趣を織り出してゐる。 蜆川は蜆川で、治兵衛の涙も、お初の化粧の水も、焼け瓦も、一 にご ・・・・・・・ 切無差別平等に、その濁つた水の底に呑み込んで、自殺してしまつ ・ た。そして今は、僅かに『元桜橋』とか『元蜆橋』とかの標柱に在 う りし日の名残を止めて、其流れは跡方もなく埋め立てられてしまつ な かつぱじま た。出入橋から大学病院の北岸を甜めて、合羽島で堂島川に流れ込 んでゐる泥川は昔の蜆川の下流であるが、これも近く埋め立てられ る事になつてゐる。